クオリティと勇気

紅茶が好きです。
コーヒーも好きです。

セカンドフラッシュのリーズナブルな茶葉で淹れた紅茶。
美味しいのですが、やはり違うのです。

お値段が高ければ良いとも限りませんが、茶葉は出来の良し悪しに差があるので、やはり美味しい茶葉はそれなりにお値段が上がります。

どちらかというと、私はファーストフラッシュの方がより好みですが、ファーストフラッシュも高めの茶葉とリーズナブルな茶葉では味や香りや余韻が全く違います。

リーズナブルなものが悪いというわけではありませんし、それが必要な場面も日常の中にはたくさんあります。

でも、同じダージリン地方で同じ茶園で同じ年、同じシーズンに生まれた茶葉でも、とりわけ優れたものとそうでないものがある。

ロットNoが少し違うだけで、クオリティに大きな差があることも珍しくない。


とりわけ優れた茶葉は、深く人を感動させ幸せにします。


優れたものは、ありがたい。


だから自分も、できるだけ質の高いアウトプットをしていきたい。


ただ、「とりわけ優れた存在」というものは、「その他多くの普通の存在」があってこそ生まれるもの。普通の存在にも価値がある。


とりわけ優れた存在を認めることは、その他多くの普通の存在を認めるということも暗に含まれているわけです。


理想の自分と比較して、それに近づいていきたいという欲望は、健全なる優越性の追求。


かたや、自分は「常に」「優れた存在でありたい」という思いは「その他多くの普通になりたくない」という不健全な(?)劣等感(アドラーは優越コンプレックスと定義)につながってしまいます。


だからあえて、「普通である勇気」を持つことが大切。

そういうアドラーの哲学、いいと思うなぁ。

今念頭にあるピアノに関する個人的プロジェクトにおいて、この「普通である勇気」はスローガンとして掲げておこうと思います。


人前で理想通りに演奏できるに越したことはないけれど、たいして「可もなく不可もなく」な出来栄えだったとしても、普通であることに失望しないメンタルづくりをしていきたいと思います。

楽しく続ける大人のピアノ

楽しみながら憧れの曲に近づいていくために